手合わせ願います!
 そう叫ばれたのはすこし前のこと。まっすぐな長い髪の毛をあたまの高いところできちりと結い、手には得意とするであろう得物の槍が握られている。とはいえ稽古用の使い古されたものなので、どこか間が抜けて見えた。
 数ヶ月前、蜀に降ってきた姜維に手合わせを願われた馬超は、とくに断わる理由もなく、むしろ同じ槍の使い手ということで手合わせをしてみたいと思っていた所だったので、おう、ときわめて低い声で言葉を返した。
 いっけん、あこがれの武将に手合わせを願う、まだしりが青い若武者と、願われるのは慣れているので冷静に対応する武将に見える。
しかし、実際のところ、後者の馬超はけんめいに冷静を装っているところだった。
 人なつこい笑顔、走るたびに揺れる髪の毛、ひきしまっているけれどむちりとしているふともも、さらにはひとつひとつの些細なしぐさが、馬超の男心をそそり、気がつけばいつもその姿を追っていた。
 何度か声をかけるも、執務で部屋にこもっているか、つねにせわしなく走り回っているので、ゆっくり話すこともできずもの足りなかった馬超にとって、こうして声をかけてもらえたことは小躍りしてしまいそうなほど嬉しいのである。
「手加減はしないでくだされ!」
「お、おう」
 姜維はほどほどにしゃべるが、馬超は返事として「おう」と言うことしかできず、そうこうしているあいだに互いは槍を構える格好になっており、姜維はいまかいまかと馬超が攻めてくることをまっているようだった。
「で、では行くぞ!」
 緊張ですこし声がうわずり、それを情けなく思った馬超の顔はみるみるうちに赤くなる。それは本人も認識したことなので、つい顔がうつむいてしまう。
 顔の赤みに気付かれていないか、そればかりが気がかりになり、馬超は手合わせに集中できなかった。負けるかもしれない。そう思いながらも攻撃をしかけた。
 瞬間、姜維が構えていた使い古されてぼろぼろの槍は、まさしくぼろりと折れて、馬超が使っているわりと新しい稽古用の槍は姜維のからだを突こうとする。
 しかし、そこはさすがといったところで、馬超は寸前のところでその槍を止めた。
「くそ、なんで折れたんだ…。大丈夫か、きょ…」
 さて、なんと呼べばよいのだろうか。馬超は止めなくていいところまで、寸前で止めた。
 馬超は姜維より年上であるし、位も上だ。その辺りで考えてみれば姜維とよびすてにしてしまっていいのかもしれないけれど、一応はじめて名前を呼ぶのだから姜維殿と呼んだほうがいいのかもしれない。
 どちらが適切なのか、頭脳で言えば姜維よりはるかに下な馬超は、額に汗を滲ませながら迷った。
「あの…馬超殿?」
「あっ、すまない姜維……殿」
 迷ったあげく、名前を呼んでからすこし間をあけて小さく殿とつけた。
「や、やめてくだされ!姜維とお呼びください」
 片手にぼろりと折れた槍を持ち、もう片方の手をぶんぶんと降るその姜維の顔は、照れなのであろうか、赤くほてっていった。
 かわいい奴、と思いながら、馬超は姜維と呼んで構わないということがわかり、ほっと安心した。だいぶ緊張もとけてきて、いつもの調子にもどっていく。
「そ、そうか。折れてしまって、なんだかしらけたな」
「そうですねえ……」
 相変わらず顔を赤くしたままの姜維は、返事もそこそこに必死になって手で顔を仰いでいた。
 そこから沈黙が始まり、しずかに手のひらが風を作る音だけが聞こえる。
「馬超殿、つかぬことをお聞きしますが…。その髪の毛はじゃまくさくはありませぬか?」
 手のひらで仰ぐことをやめて、新しく質問を投げかける。
 そういわれると、じゃまくさい。馬超はすこし顔をうつむかせるだけで目にかぶさる前髪と、肩のあたりまで伸びた襟足を交互に触りながら、確かに、と呟くように言った。
「よ、よければこれをお使いください」
 するりと姜維の懐から出されたのは、白い紐だった。つやのあるその紐は髪を結うために使うものであるようで、姜維の髪を結っている紐と比べてみると色が違うだけで変わりがない。
「よ、よいのか?」
 遠慮がちに指をのばし、するりと姜維のしなやかな指からその紐を抜き取った。
 しかしよく考えてみれば、生まれてこのかた自分の髪の毛を結ったことがない。大ざっぱにざくりと切ってしまうほうが、毎日じゃまくさくないように結うより、楽だからである。
 それでもせっかく姜維がくれるというのだから、ここはぜひともこの紐を貰って使いたい。馬超はなんとかしようと、必死になって髪の毛と闘ったものの、つるつるとすべり全く結える気がしなかった。
「あの、結いましょうか?」
 見かねた姜維がおずおずと口を開く。恥かしさを感じながらも自分ではどうにも出来ないので、馬超はまかせることにして一度手にした紐をふたたび姜維の手にもどした。


「細いですね。さらさらで、とてもいい髪質だと思います」
 もぐりこんだ指先が、からまっている髪の毛をさらさらと梳かしながら流れ落ちていく。
 すぐうしろに姜維がいる、それだけで馬超は緊張して落ち着かないのに、指で髪をまんべんなく梳かれているのかと思うと、心臓がばくばくとしてとまらない。
「すごい、きれいな色ですね。見る角度によって色がすこしづつ違う…。白ですけど、赤がまじってみえたり、青がまじってみえたりして…」
 まるでひとりごとのようにいいながら、馬超の髪を結いはじめる。きゅっと上のほうに髪を引っ張られ、姜維は上のほうで結うのが好きなのかな、とどうでもいいことを馬超は考えていた。
「同じ人間なのに、こんなにきれいな髪の色をもって生まれるかたがいらっしゃるんですねえ」
 なんてことないふつうの言葉が、馬超の人一倍つよいいたずら心をくすぐった。
「おれ、狼と人間の間にうまれたから、こういう髪色なんだ」
 消えていたはずの、髪の毛が首にあたってくすぐったい感覚が、ふたたび感じられる。おそらく、姜維の手から自分の髪の毛が落ちたのだろう。
「こわい?でも狼のように襲わないから大丈夫だぞ」
「わ、わるい冗談はよしてください…」
「冗談じゃない。信じられないのか?」
「……ばちょ、」
 その言葉をさえぎるように、馬超はふりむいて姜維を逃がすまいと細い腕をつかんだ。まぢかにいる姜維は唇をわなわなと震わせていて、手にしていた紐を地面へと落とした。
 口のはしをあげて、笑って、くちびるがあたるかあたらないかのところまで顔を寄せる。
「ごめん、やっぱり襲っちゃうかも」
 姜維の腕に力が入るのがわかった。さすがに、度が過ぎたいたずらかもしれない。腕をつかむ力をじわじわとゆるめて、完全に解放したと同時、
「うそだよ、ひっかかるな」
なるべく与えた恐怖心をやわらげようと、とびきりのやさしい笑顔をつくる。
姜維はしばらくぽかんと口をあけたまま、しばらくしてくやしそうに唇をかんで、顔をまっかにする。

「……この、けだものっ!」

耳が痛むほど高い声で叫んだあと、姜維はすぐにその場から走り去ってしまった。かわいらしく揺れる姜維の髪の毛がみえなくなるまで、馬超はうしろ姿を見つづけて、ようやく見えなくなったあとにふうとひといきついた。
すこしやりすぎてしまったのかもしれない。いや、かれが純粋に信じ込み、こわがりすぎたのかもしれない。苦笑しながら地面に落ちたままの紐を手に取り、かるく土をはたく。
仲直りをして、こんどはちゃんと結ってもらおう。
その時のため、馬超はじゃまくさい髪の毛を切らないままでいる。


2006/09/10