この部屋に姜維というやつが住み着いてから、一週間が経った。 初めこそ、俺たちに気を使い、会話をするにもまごまごしていたが、だんだんと慣れてきたようで、言葉もすんなりと出るようになっていた。 馬岱が大学、そしてアルバイトへ行っているあいだには、姜維がきちんと家事をこなしてくれていて、馬岱はほんとうに助かると言っていた。まだ食事を作ることは難しいようで、朝飯と夕飯は馬岱が作っていたが、毎日、昼間に一度だけ食事を作ることに奮闘していた。 「どうですか?すこし、焦げっぽいかも、わかりません…」 今日の昼飯は、オムライスだと姜維は言っていた。確かに見た目はきれいなオムライスで、スプーンでつついてみればみごとに半熟のたまごがとろりとケチャップライスのうえに流れた。 しかし、これはケチャップライスなのだろうか?あきらかにケチャップの色ではない。あまりにも茶色いので、チョコレートライスといった方がしっくりくる。そして、一口食べてみれば、カカオ99%のチョコレートオムライスと名がピッタリだった。それはそれで問題なのだが。 「うん、ちょっと焦げてるな…」 「ですよねえ…。すみません」 あっという間に姜維がへこたれた。食べられないわけでもないので、そのうち上手くなるよ、と付け足して、残りをもくもくと食べた。 姜維はむりをして食べなくても、と心配そうな顔をして言っている。そう言っている時間があれば、練習してもっと上手いごはんを作れるようになってほしい、と思ったが、その言葉はこいつにはきつすぎるので、言わなかった。 朝から昼間にかけて、どうしても人にやさしくすることができない。やさしくする余裕がない。 きっと、いま目の前にいる相手がこいつでなければ、いまさっき思ったことだって口にしてただろうなあ、とぼんやり思った。 姜維は、大切にしておきたい。まるで女に抱く感情を、俺はこいつに抱いているような気がする。 「馬超さんは、朝によわいのですか?」 カカオ99%チョコレートオムライス…ではなく、姜維が作って失敗したオムライスが半分以上減ったとき、姜維はそう訊いてきた。 いつか訊かれるだろうと、不信に思われるだろうと思っていたが、いざ訊かれるとなると、どう答えればいいかわからず、微妙な間が開く。 「…まあな。朝は苦手だ」 しばらくの間が開いたあとにそう返したが、やはりその間におかしさを感じたのだろうか。姜維は、訊いてはいけないことを訊いてしまった、という気まずそうな顔をして、それ以上はなにも言わなかった。 「………その薬」 昼食後、姜維ははみがきに行くので、いつもその時をみて薬を飲んでいたのだが。 なにやらおかしな虫が廊下にいたらしく、ぎゃあぎゃあ騒いで、すぐにダイニングルームへと戻ってきた姜維は、俺が飲もうとしていた錠剤を見て言った。いや、訊いていた。 「…頭痛もちなんだ」 咄嗟に嘘が出た。 嘘を吐いた罪悪感は多少あったものの、頭痛もちで薬を飲んでいるということを言っておけば、この先は姜維がいようがいなかろうが、どうどうと薬が飲めるんだな、と思うと、気が楽になった。 姜維は、それは大変ですね、というと、虫のことを思い出したようで、テーブルの上からティッシュを掴み取ると、虫の退治に戻っていった。 後先考えず、一緒に住もうなんてことを言ったけど、なんだか早々に苦しくなってきた。 みずしらずの人間といきなり同居するなんて、無理なことだったのかもしれないな、といまさら思うようになってきてしまい、そのたびに軽軽しく物事を決めてしまった自分がいやになった。 自分も、周りの人間も、全部がいやになってしまいそうな感覚。 ああ、昔もこんなことがあった。いままでそれは薬で抑えることができていたはずなのに。 本当はいやじゃない、愛しているのに、病んだ心がそれを"いや"という感情に変える。 「超兄!」 馴染みある馬岱の声が、いきなり聞こえたかとおもうと、目の前には不安そうに揺れている黄緑色の瞳があった。まるで睨みつけるような視線に、ぼやけていた意識が冴えて、まず自分の手を確認した。 よかった、何も手にしていない。 安堵し、いったん目を閉じて、深呼吸する。もしかしたら、いま自分はここにいなかったのかもしれない、と思うと、吐く息が震えた。 「おまえ…大学は?まだ昼だぞ」 「今日は朝から超兄の様子がおかしかった。だから心配で抜けてきた」 いつもは冷静な馬岱が、めずらしく早口で、焦っていた。 ごめん、と言って、馬岱の冷たくなった指先を握って、それからは馬岱に進められるままに自分の部屋にもどって、ベッドの中で休むことにした。 ようやく虫を取り終え、はみがきもすませ、もどってきた姜維は、おかしな雰囲気に、不安そうにせわしなく動いていたが、それを落ち着かせることができるほど、自分の心には余裕がなかった。 「岱、姜維がすごい心配そうな顔してた。落ち着かせてやっておいてくれないか」 「わかった。わかったから、超兄も落ち着いて」 「…うん」 「そうだ、もうすこし強い薬もらってこようか?話せば、本人がいなくても、くれるかもしれないから」 「うん、頼む」 ベッドの中にもぐりこみ、俺の腕をなでていた馬岱の手がするりと離れる。どしん、と不安な気持ちが大きくなって、のしかかってきたように苦しくなって、思わず腕を伸ばして、馬岱の手を掴んだ。馬岱は困ったような顔をしたので、すぐに離した。 「すぐ戻ってくるから」 俺がこんなに頼りないやつで、馬岱も不安だろうに、でもそれを撥ね退けて行動できる強いやつだ。そう言って苦笑すると、もう一度、今度は俺の手を掴むと、真剣な眼になって俺を見た。 「約束、覚えてる?」 つい、笑ってしまいそうになった。真剣にそう訊いてくる従弟が愛くるしくて、そして"約束"だなんて覚えていても相手がそれを破ることだって十分にありえるのに、それを頭に入れず"約束"をおまもりのようにしている従弟のばかばかしさに。 「覚えてる。こう…だろ?」 ――――生きることを約束してください 戻る |