馬超さんの様子が、馬岱さんの様子が、それどころか部屋の空気さえもどこかおかしい。この部屋に住んでいる人となんの関りもない私が、ずうずうしくこの家に居座っているせいなのだろうか。気を使わせてしまっているのだろうか。 罪悪感に私の心もおかしくなっていく。ふたりのことをなにも知っていない私はソファーに座っていることしかできない。 しぃんと静かな部屋でひざを抱えてソファーのうえにいると、じきに雨の音が聞こえてきた。空に浮かぶ雲は厚く、陽射しがないせいで部屋は薄暗い。気持ちも暗くなって行く。 おかしい心と暗い気持ちと、両方が重なって、そして思い出す。 まぶたの裏にはっきりと浮かぶ映像。いつまでたっても忘れることのできない光景。 母のやわらかい頬をたたく父の姿。割れた酒瓶の破片を手にして、それを母の体の目立たない部分にあてがって下に引く父の姿。お前だって反抗すればこうなるんだぞ、と威圧するような目を向ける父の姿。ぼたぼたと床に垂れる血の―――― きぃんと耳の奥でいやな音がして、はっと目を開く。なんの変哲もないリビンクを見つめながら耳に神経をよせる。なにかが耳鳴りに交じっている。甲高い叫び声、母の声、暴力を受ける母の、こえ? 目に水で溶いた絵の具を注したように、視界がじわじわと赤色ににじんでいく。 こわくて目をとじる。大慌てで大きなかばんにいろいろな物を詰める母の姿がまぶたの裏に浮かんで、また目をあけると、赤くなって歪んだ世界しかなくて、また目をとじると、まぶたの裏に包帯を巻いた手でドアノブをまわす母の姿。 その繰り返しをして、ひらいてとじて。そのたびまぶたの裏に浮かぶ映像は異なって、まるで写真をスライドしているようだ。 重たい荷物を手にして薄暗い道を歩く母の姿。まるで廃屋のようにぼろぼろな家のドアノブを開ける母の姿。笑ってごはんを食べる母の姿。 鬼のような顔をして、煮え立ったお湯が入ったおたまを傾ける母の姿。 一瞬にして頬が燃えるように熱くなった。あのときの感覚が蘇る。熱いお湯をかけられた瞬間のこと。 こわくて憎くて、体が震える。 憎い。母が、父が。私に暴力を振るった母がすこしだけ憎い。母に暴力を振るってその人格までもおかしくした父が、なによりも憎い。 父は大酒飲みで酒癖がわるくて、会社を休んで朝から酒を飲んでいたこともしばしばあった。 父は酔って母に暴力を振るった。はじめは体にわるいと酒を飲む父をとめようとした母の頬をひっぱたくような、すこしの暴力だった。それがエスカレートして、最後には父に怯える母の目つきが気に食わないと、空になった酒瓶を床に叩きつけて割り、その破片で母の体を傷つけた。 父はそれを怯えて見ることしかできない私を「お前だって反抗すればこうなるんだぞ」と目で言った。 母の腕から垂れる血はとても赤かった。母は、目をとじなさい、と私のために叫んでくれていた。 それが母が傷つく最後の日だった。次の日にいつもどおりに学校から帰ると母が大きなかばんに荷物を詰めていた。父はどこかへふらふら遊びに出ていたようで、姿はなかった。 あなたもすぐに荷物を詰めて、もうこの家を出るのよ。母は早口で、それでもどこか希望を見出したような顔で言って、私はわけのわからないままとにかく従って荷物を詰めた。 そしてその日の夕方、母はずっと父と生活していた家を出た。酒の臭いと血の臭いが漂う家から逃げようと、母は包帯を巻いた手で錆びかけたドアノブをまわした。 父がどこをふらふら歩いているかわからないからと、入り組んだ道を真っ暗になるまで歩いて、そのあとわずかなお金を使ってバスに揺られて、新しい住みかの、見た目はぼろぼろだけれど住み心地のよい家のドアノブに母は手をかけた。 いちからすべて思いだしていくと、母が父からの暴力を受けなくなってあまり日の経たないうちに母から私への暴力がはじまった。 すこしのあいだは、新しいけれどぼろぼろの、それでも笑いの絶えない家で、母もほっと安心しているようなやわらかい笑みを浮かべていた。そうしているうちに、どうやって母のきもちが変わったのかは知らない。 なんで私だけ暴力を振るわれなきゃいけないの、どうしてこの子の体には傷がないの。そういら立ったのかも知れないし、もしかしたらただの気まぐれからの暴力だったのかもしれない。あるいは、私が母の気に食わないことをしてしまって、それが原因だったのかもしれない。 だからって暴力を振るうのはよくないけど、結局やさしかった母がそうなってしまったのは父のせいなのだ。 父がああでなければよかったのか。それなら父がこの世にいなければよかったのか。それなら、いまから父がいなくなっても遅くはない?いまからでも父がいなくなれば、母もすこしは私にやさしくしてくれる?暴力もなくなって、またお母さんと一緒に暮らせる? そっか、そうだ。あいつがいなければ。 なんて、簡単な。 戻る |