終わり








超兄の付き添いで通いなれた病院は、大急ぎで自転車を飛ばして十分ほどの距離にある。
見なれた建物の駐輪場に急いで自転車をとめ、息を整える間も置かず受け付けで事情を話す。それからすぐにかかりつけの医師と会うことができて、いま処方してもらっている薬よりも強い効き目のある薬がほしいと話すとすこし逡巡した様子を見せたものの、超兄の体調がよくなったらすぐ病院に連れてくることを約束すると快く承諾してくれた。処方箋も受け取り、あとは薬局で薬を受け取るのみ。
超兄のことが心配で心配で、薬を調合してもらうのを待っている時間さえもどかしい。時間にして十五分ほど、それでも俺にとっては「ようやく」薬を受け取ることができて、荒々しく財布から小銭とお札を取り出して代金を支払う。
駐輪場まで走って戻り、篭の中にだいじな薬を放り込んでペダルに足を乗せる。
「すみません、あの」
切迫した声が、俺を引きとめた。急いでいるというのに。聞こえないふりをしようとしたが、肩をつかまれたのでしぶしぶふり向いた。
俺と同じくらいの背丈の、それなりに老けているというのに厚化粧をして若作りしている女が、汗でその化粧を崩していた。
「髪が茶色で長くて、年齢は二十歳くらいで素足の、痩せた男を見かけませんでした?」
どうやら人を探しているらしい。ずいぶんと必死な顔つきで訊いてきた。でも俺は急いでいるのだ。たいして考えもせず俺は、しりませんけど、と言っておいた。女は残念そうに、そうですか、と言うと呼び止めたことを詫びもせず道を進みすぐ先の角をまがって行った。
まったくくだらないことで足止めをくらってしまったと思いつつ、俺は道を急ぐ。

髪が茶色、そして長く、年齢は二十歳くらい。素足の痩せた男。

ペダルを漕いで汗をかいた体に、冷たい汗が伝った。ああ、思いあたる人がいる。
さっきの女がまだいることを期待してさっと自転車で来た道をもどり、女が消えて行った角をまがったが、既にその女はいなかった。
そもそも、女がいたらどうしていたのだろうか。その人しっています、と言った?いや、言わない。だって思いあたる人物は、いま俺の住んでいる部屋でかくまっている、姜維なのだから。
とにかく落ち着けと自分に言い聞かせ、帰り道を急いだ。頭上の雲が不気味に黒く、いまにも雨が降り出しそうになっている。
夏の終わりの雨は急で、幸せな時間が壊れるのも急なのだ。



途中雨に降られながら、マンションに着いた。エレベーターを待つのももどかしくて、階段をいそいで駆け上がって濡れた手でドアノブをまわす。
玄関に見慣れない靴はなかった。部屋の中も静かだ。ということは、まだ姜維の居場所はあの女、おそらく姜維の母親には見つかっていない。
冷静に考えればついさっきまで居場所を探していたのだから、あのあとすぐに居場所を嗅ぎつけてもそうすぐには来れるはずもない。ほっと息をついて、頭を横に振って気休めに髪の毛についているしずくを落とす。
「ただいま」
湿っぽい靴下をぬぎながらそう言って、バスルームに置いてある洗濯籠にそれを放り投げる。いつもならすぐに姜維が「おかえりなさい」と返事をくれるのに、それがなかった。
もしかして、勝手に外に?
そんな考えがふと頭を過ぎった。玄関にある靴はいつも通りの数だったけど、もし姜維がなにかパニックを起こしたりしたら、はだしでも外へ飛び出ていく可能性もある。
そもそもここへ来たときだって、はだしだった。
けれど早足にリビングへ向かうと、そこにはきちんと姜維の姿があった。ソファーに横になって目をつむっている。眠っているようだった。
姜維に変わりがないことにほっとして、それならば超兄に早く薬を飲ませたいので、キッチンから透明のコップを取り出して水を注ぐ。
新しく処方してもらった効き目の強い薬。その大きな錠剤ひとつとコップを手にして、超兄の部屋にいく。どんよりと真っ暗な部屋のベッドのうえで、超兄はぼうっと座っていた。
「あれ、寝てなかったの?」
返事はない。もともとそれは承知で話し掛けたので、とくに気にはならない。
うつろな目で、超兄は空間を見つめている。なにかいらついているように、ときおり手の甲を自分の爪で引っかいている。蚯蚓腫れになっているのがいたましく、俺はその自傷行為をやんわりと止めさせた。
「ほら、効き目のつよい薬。飲んで」
つまんだ粒を超兄の鼻先に寄せる。ゆっくりと超兄の手が動いて、それを受けとった。口に入れたことを確認して、コップを渡す。
「しばらくすればよくなるよ。もう夕方だし」
返されたコップを受けとって、俺は超兄のやわらかい髪をなでた。そしてすぐに部屋を去る。まだやらなければならないことがたくさんあるから、それをやりとげるために自分の心をしっかりさせておかないといけないから。
これから姜維に、話をしなければ。
姜維にとっては酷な話。

ずっと、そのまま眠っていれば、ひどい現実から逃げていられる。
でもいつか目覚めなければ、いやでも目覚めてしまうから、逃げて逃げて逃げ切れなくなったときの辛さを、姜維は耐えることができるのだろうか。








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