インターホン








馬岱さんが帰ってきた。もし話かけられたらまともな言葉を返せる自信がないからと、私はソファに横になって目を閉じた。
自分がこわくて、その気持ちをまぎらわすため丸めた手のひらに、とがった爪が食いこむ。
さっきまで考えていたこと、父をこの世から消せば母に褒めてもらえる、と。なんてこわい考えを私はしていたんだろう。母に暴力を振るっていた父を殺そうとしていた。そうすれば母に褒めてもらえて、きっとやさしい母とまた一緒に暮らせるだろう、そう考えた。
でも、人を殺した子どもを母は必要としない。あたり前のことだ。それでもついさっきまで、そんな「まともな考え」ができないほどに頭がおかしくなっていた。
いつか、突発的に、それを実行してしまったら?
自分がおそろしい。
このままぐるぐる考えごとをしていたら、また気がおかしくなりそうで、馬岱さんが帰ってきて30分くらい経っただろうか。私は寝たふりをやめた。
寝たふりをやめて目を覚ますと、馬岱さんはリビングにあるテーブルにひじをついてぼうっとしていた。私が動くとかすかに服の擦れる音が立って、馬岱さんはこっちを向いて「起きたんだ」とやさしく声をかけてくれた。
そして、ちょっと話があるんだ、と手招きされて、私は話を聞かされたくない気分だったけれどとりあえずイスに座る。
これほどまでにこわい話を聞かされるなんて、思ってもいなかった。




耳がなくなってしまえばよかった。いっそ体ごと、心だってなんだってなくなってしまえば。
恐怖にからだが粟立った。
「落ちついて、まだ居場所がばれたわけじゃない」
馬岱さんは冷静にそう言ったけれど、私からしてみればそんな言葉をかけられても気休めにすらならない。
だって、私の居場所を母が探しているなんて。たしかに、突然子どもが家からいなくなったらそれを探すのが親。でも、もしこれで見つかってしまえば、やさしい母が待っているわけではない。地獄のような生活が待っている。
まだ居場所がばれたわけじゃない。それでも居場所がわかってしまう可能性もじゅうぶんある。
あの家を飛び出してこの家に住まわせてもらうまで、人通りは少なかったけれど人の歩いている道を通った。そのとき私ははだしで男なのに髪が長くて、すれ違った人に記憶されてしまったかもしれない。
「そんな、わ、わたし、どうすれば……」
思うように体に力が入らなくて、ずるりとイスから体がおちる。
ほんとうに、どうすれば。どうすればいいのか、わからない。涙があふれて、それを拭うのもわすれて身をまるめる。すこしでも身を高くするのがこわくなった。だって、窓から見えてしまうかもしれないから。
「ごめん。こわがらせるような話をして。でも、これからのことを考えなきゃだから」
馬岱さんが私の背中をさする。いま欲しいものはそんなやさしさとかあたたかさではなくて、絶対にこわい母に見つからない居場所。どれほどわがままで自分勝手なことを思っているかなんて、いまの私にはわからない。
「ねえ、お父さんは?お父さんは、姜維をそのお母さんから守ってくれないの?」
父?そんな、もし父が私を守ってくれるのなら、とっくに父を頼っている。そんな、すこし考えればわかりそうなことを、どうして言うんだろう。
「そんな、むり、です……だって父は、」
こんなことになった原因は父だから。
その言葉が出ない。父のことを話すのが、もう億劫になった。とにかく母に見つからない場所さえあればいい。それだけが欲しい。
どうせいつかは飽きてしまうというのに、ひとつのおもちゃを欲しがって、駄々をこねるような私。まわりの迷惑のなにもまったく考えていない。
「どうした」
いまの身勝手な姿を見られたくなかった。できればこの人には見られたくなかった。その人がおどろいた様子で私たちを見ている。幻滅しているのだろうか。いまの私の姿に。
「超兄、起きて大丈夫なの?こっちは、へいきだから。あとで話すから」
「こんな騒ぎで寝てられるか。だいじょうぶ、効いてきたから」
逃げ出したくなった。このふたりのしあわせを壊しているのは、私なんだと改めて思う。
でも、私だって、しあわせになりたくて――――

この家にいてなんどか聞いた電子音が鳴り響いて、瞬間的に私の心を壊した。








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