ただのインターホン。それが、こいつを狂わせた。 まるで銃声が飛び交う音を耳にしたように、ただのインターホンが鳴ったとたん、姜維はからだの動きを止めた。それから一秒と経たないうち、ぶわりと大粒のなみだをぼろぼろとこぼして、のどが裂けてしまうのではないかと思うほどおおきな声で叫んだ。 「な、なんだよ?ただのインターホン……」 止まない叫び声におれの声はかき消された。 どうしたっていうんだ。ただのインターホンなのに。こいつ、おかしい、狂ってる。 このままずっと叫び声を聞いていたら、正直こっちまで頭がおかしくなりそうだった。落ち着かせる方法がわからない。それじゃあずっとこのまま叫び声がつづくのかと思うと、不安に汗がにじみ出た。 きぃんと耳鳴りがはじまって、玄関から聞こえてくる「どうしたんですか」という、おそらくインターホンを押した客人の声がとても遠くに感じる。 おれはどうすればいいのかわからなかった。それなのに、馬岱はいたって冷静で、おれに姜維の背中をさすっていてと頼むと玄関へ走っていった。 「……、姜維」 唾をごくりと飲み込んで、とりあえず名前を呼ぶ。姜維は相変わらず叫んでいて、なにかから自分を守るようにからだをまるめている。 背中をさする。それだけのことなのに、おれは中々行動に移せない。猛獣の背中をさすっていてくれと命令された気持ちでいた。いつ噛みつかれるかわからない恐怖。もっとも姜維は人であるから、噛みつかれたとしても平気だろうけど、姜維に触れることが怖かった。 手を出して、また引っ込めて。あとすこしで震えているその背中に手が届く、そう思うと自分の手も震えてしまって、引っ込めた。 「超兄!」 叱咤するような声音で呼ばれた。はっとすると、馬岱はいつのまにか玄関からもどっていて、姜維のもとに駆け寄っていた。 「背中をさすっておいてって言ったよ、おれ」 ようやく叫び声をちいさくさせた姜維の背中をゆっくりとさすりながら、馬岱はこっちを向かずに言った。おれを責める言葉はひとつも口にしていないけど、そう言われるくらいならいっそ責めてくれたほうがよかった。 どうしてこっちがそう言われなきゃいけないのかわからない。勝手にあばれて、勝手に叫んで、迷惑をかけてばかりいるのは姜維のはずなのに。 きっと馬岱にきらわれた。ただひとり、おれが心を許した相手だったのに。 じわりとなみだが滲んで、ぼやけて見える姜維の背中が異様に憎く見える。 音が右耳から入って、左耳から抜けていく。いまどうなっているのか、状況をまったく把握しないまま、おれは壁にもたれかかってぼうっとしていた。 「ごめんね」 右耳から入った音が左耳から抜けずに頭のなかで理解できたのは、その言葉が最初だった。 じわじわとなみだを滲ませて、はれぼったくなった目をぐいっとこすって、顔をうえに向ける。馬岱が申しわけなさそうな表情を浮かべて、おれにアップルジュースの入ったコップを差し出してきた。 「おれも気が動転してた。超兄を責めるつもりはこれっぽっちもなかったよ」 ひとさし指と親指で「これっぽっち」を現して、苦笑する。よかった、おれはきらわれてはいないみたいだ。そう思って安心すると、おれは飲みものがほしくなって、コップを受けとった。 「本当にごめん。正直、姜維がこわかったでしょ?」 馬岱はおれのとなりに腰を降ろした。ふぅ、と息をついて天井を見ている。うるさかったからおとなりさんに謝らなきゃなァ、とこぼした。 「……そういえば、あいつは?」 おれはその質問には答えずに話しを逸らした。 「落ち着いたから、いまはおれのへやに寝かせてる」 「……あいつさ、なにをあんなに、」 「いろいろあったんだよ」 のどを潤しながら胃に落ちていくアップルジュースを感じる。いろいろあったのは、おれだって姜維の身の上話を聞いてたんだからわかっている。いまさら、と思った、けど。 「超兄とおなじように、いろいろあったんだよ」 「……」 おれとおなじように、いろいろ。そう言われると、複雑な気持ちになった。さっき姜維に対して思ったことがすこし申しわけなく思えて、言葉につまる。 「姜維のこと、迷惑だって思ってる?」 馬岱の目は真剣だった。逸らせるような話ではないと感じて、おれは空になったコップを手のひらで転がしながら答えた。 「……さっき、すこし思った。人ん家であばれるし、岱のことはとっちゃうし」 「やだ、それ嫉妬っていうんだよ」 けたけたと笑って、冗談めかして「だいじょおぶ、おれは超兄がいちばん大切」と言った。はずかしくて、おれは顔を逸らしながら言葉をつづける。 「でも"おれとおなじようにいろいろあった"んだよなって思うと、そう思ったこと、後悔した……よ」 本当に、後悔した。 「そっか。……それじゃあさ、姜維の今後について話したいことがあるんだけど」 「うん、そうだな…」 「そのまえにひとつ、約束してくれる?」 「……やくそく、か」 約束。おれはその言葉が苦手だった。するのも苦手だった。 「もう約束ごとひとつしてあるから、そっちやぶってもいいなら、する」 ただなんとなく、思ったことを口にしただけだった。そしてすぐに言ってしまったことを後悔する。 「それ、本気?」 馬岱の顔がこわばった。表情ではうっすらと笑みを浮かべているけど、目が笑っていない。 「…ばか、冗談だ」 本当は冗談ではなくて、すこしだけ本気だった。 生きることを約束してください。水面下ではこの約束をやぶりたいと思っている自分がいる。そのことを突きつけられた気がして、自分でもすこしおどろいた。 戻る |