なにもしらない獣








聞こえた嗚咽は本当に微かなもので、ふだんなら別に目をさますほどのものではなかったけど、やはり気がかりなことがあるとすこしの物音でも目がさめてしまうもの。
まっさきに目に付いたものはもぬけの殻となったベッドで、はっとなりすぐさま周囲に視線をまわす。ベッドの上に寝かしつけていたはずの人物は、このへやに唯一あるちいさな窓の下に、ちぢこまってすわっていた。俺をじっと睨むように見ている。
「姜維」
起きぬけの頭はずいぶんと鈍っていて、他にもっと適切な対応法があっただろうに名前を呼ぶということしか思い浮かばず、覚えたばかりの名前を口にした。すると床にぺたりとくっついていた指がひくりとはねて、名前の主は逃げ出すようにすばやく立ち上がる。
まて、と叫ぶように言いながら、手を伸ばせばぎりぎり届くところにあったほそっこい足首をとっさにつかむ。まさかつかまれると思っていなかっただろう足首をつかまれて、姜維はバランスをくずし床にからだを打ちつけた。
「ご、ごめん!」
たぶん顔を打っていた。あわてて移動し真正面から顔をのぞいて見ると、床には月のひかりを浴びる透明な水滴がこぼれていて、ワンテンポ遅れてから赤黒い液体がぼたぼたと落ちはじめた。
これはまずい、と脇のあいだに手をくぐらせて自分の前に起き上がらせる。ベッドのわきに置いたティッシュケースの中から乱暴に何枚かひっつかみ、鼻にあてがう。真っ白だったティッシュはみるみるうちに赤みを含む。
これでは間に合わないとまるめて鼻につめようとすると、抵抗するようにつめたい手が俺の腹をよわよわしく押し返した。
その動作ではらりとバスタオルの結び目がほどけて、痣が点在する肌が一気にあらわになる。すぐそのことに気付いた姜維は、いままでと比べものにならないありったけの力を込めて俺を押しのけると、見るな、と強く言い放ち、狂ったような瞳で俺をはっきりと睨んだ。

痣だらけのからだと、
血にまみれた顔と、
涙を浮かべた狂気的な瞳が、
月のひかりに照らされる。まるで獣のように見えた。







「すこし血がのどにまわったかもしれないけど」
騒ぎに目をさました馬岱は、俺が近付こうものなら噛みついてきそうないきおいで睨んでいた姜維をすぐになだめて、鼻血の処理をてきぱきとすませた。
なだめるのが得意、というよりは、威圧感がありすぎて姜維のほうがおびえてしまったといったほうが正しいような気もする。姜維がおとなしくなった今は、おびえるほどの威圧感はきえていた。
「超兄の洋服かして。俺のじゃ大きいから」
血液をたっぷりと吸い込んだティッシュを真新しいティッシュにくるめて、ぽい、とゴミ箱に捨てると、馬岱はそのまま奥のへやに消えてしまった。姜維に着せる洋服を取りに行ったようだった。たしかに、大きさのことを考えれば俺の洋服のほうが合う。
馬岱がいなくなったへやはしぃんと静まりかえり、どうも気まずい。すみに視線をやれば、鼻血が垂れたバスタオルに包まってちぢこまった姜維が鼻をすすっていた。
なにか話しかけたほうがいいのだろうか。

「なあ」
思い切って出した自分の声が、想像以上にへやの中で響いたので、やっぱり黙っていればよかったと今更遅い後悔をしながら、またすみに視線をやる。姜維はこっちを見ていた。睨みつけるような目つきではなく、わりあいおだやかなものだ。
「いつのまに目をさましたんだ?」
あたかも気になっていたかのように話をつづける。たしかに、気を失っていたのだからいつ目をさましたのかは気になるが、それをほんの些細な気がかりにしてしまうほど、もっと気になっていたことがあった。それはとても聞きにくく、別の話に逃げた 。
「…あ、あなたが起きるすこしまえに」
「あ、そ」
まさか返ってくるとは思わなかった返事があっけなく来たので、すこし驚きながらも、そっけない返事を返した。会話がつづかない。 馬岱はまだ洋服をさがしているようで、奥のへやでがさがさと物音を立てている。
「もうちょい、こっち来いよ。俺そんなに怖いやつじゃないよ」
ためしに、語尾をやさしくしてこっちに来るように誘ってみる。
すこし戸惑っているようだった。姜維の手がそっとのびてきたかと思うと、すばやくひっこんでいく。見ていてとてもじれったい。次に手がのびてきたその時、ひっこんでいくまえにこっちからも手をのばして、肩をつかんで引き寄せる。
つかんだ肩が大きくはねた。姜維はとても驚いた顔をしている。
「き、きたない、から、はなしてください」
「きたない?え、俺きたない?」
すこしショックを受けながらそう返すと、姜維は目をふせた。
「私の、からだが…きたない」
そして目をとじる。
そんなことはないはずだ。たしかに人とは違う。痣がたくさんあるし、背中だってものすごい爛れているし、ぎょっとするほど痩せているけど、けっしてきたなくはない。うつくしいからだ。

「…ばかいえ、じゅうーっぶん!きれいなからだしてるだろ!」
たとえどんなに傷があっても、
「俺からしてみれば、ずっとずっと」
それを魅せてしまうほどに、
「ほかの奴らより、きれいだと思う」
もとのからだがきれいだってこと、こいつはわかってない。
「話してみろ、俺たちに。その、からだのこと。いろいろあったんだろうから」

とじた姜維の目がぱっとひらいた。顔をあげて俺をじっと見つめて、瞬きをするたびに長いまつげが水気を帯びていく。






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