ふたり、不幸せの道へ








わななくかれの唇から話されることは、どれも残虐なものだった。九年もの長いあいだ、陽のひかりさえ見ることも姜維は許さなくて、ただ飼われるように狭くて薄暗いへやに押しこめられていた。
そのあいまに受けてきた暴力や罵倒の辛さを、いままで平凡に生きてきた自分には、想像することさえ難しい。話の途中にあいづちをうつことしか出来なくて、話が終わると沈黙が押しよせた。姜維は脱力したようにぐったりと壁にもたれかかっていて、鼻をすすっている。
自分はどうするべきなのかがわからない。やさしく背中をさすってやるべきなのか、そっとしておいてやるべきなのか、同情してやればいいのか。考えてみても、どれも正しくないような気がする。
「どうして殺してやらなかったの、その母親を。どうして」
馬岱は沈黙をすみに追いやるように怒声をあげた。うつむいていた俺は、はっとなり顔をあげると、馬岱は俺の服を着せた姜維の胸ぐらをつかんで数回ゆさぶっていた。
「やめろよ」
急いで止めにはいるも、興奮している馬岱はきつく釣りあがった目でこっちを睨みつけると、あいている手で俺の襟をつかんではね飛ばした。俺は床に倒れてしまい、一瞬ぐっと息がつまった。からだを起こしながら前を見ると、馬岱は口のはしをゆがませながら姜維を嬲っていた。
殺してしまえばよかったのに。
首をしめていればいいだけなのに。
そんなこともできないの?
嬲られている姜維は、顔を背けることすらできないのか、怯えた目をして歯を食いしばっていた。じきに馬岱から発せられた「いくじなし」の言葉と同時に、胸ぐらをはなされた姜維はすとんとその場にへたりこんでしまった。
「なにしてるんだよ!」
わきあがった感情を抑えることが出来ず、怒鳴りつけて馬岱に飛びかかった。力ずくで押し倒しでもしなければ、興奮した馬岱を落ち着かせることはできない。押し倒された馬岱は、荒く息をつきながらじわりと目から水滴を零した。
馬岱はめったに涙を流さない。俺は、何年かぶりに見るその涙に驚いて、押しとどめる力をふっと緩めてしまった。その隙に、馬岱は力をこめて俺のからだを撥ね退けた。
「だって、悔しい。ひどい、許せない」
目の縁を赤くした馬岱は、俺との距離をある程度とりながら吐き捨てるように言った。
俺だって、悔しい。ひどい、許せない。ここまで姜維をいたぶった、その母親のことが。
「でも殺せなかった姜維にやつあたりだなんて、間違ってるぞ」
肩で息をする馬岱は力のなくなった目でそう注意した俺を見つづけたあと、唾をごくりと飲みこむとうずくまったままの姜維に近づき、ごめんね、と声をかけた。姜維は顔をあげようとしない。
「ごめんね、本当に。…興奮しすぎた」
馬岱が姜維の頭をなでると、姜維は視線をうかした。反省したように馬岱が苦笑いすると、姜維は微笑んだので俺はうれしくなった。きっと馬岱もそうで、苦笑いを微笑に変える。
「朝ごはん作る。なにか、消化のいいものを」
かわらず微笑んでいる姜維のからだをゆっくり起こすと、馬岱は朝ごはんを作るといいだした。気付けば、さっきまで薄暗いと思っていたへやも、窓から差し込む朝日で明るく照らされていた。
――――もしかして姜維にとっては、このひかりさえもすごく懐かしいものなのだろうか?
聞いてみようとして、口をつぐんだ。聞かなくとも、懐かしそうに目を細くして窓の外を眺めている姜維を見れば、わかったことだから。



リビングルームからは、キッチンがよく見える。リビングにあるソファーのうえで、姜維は膝を抱えながらキッチンに立つ馬岱を、動かずにじいっと見ていた。
馬岱は、大学に通いながらアルバイトをしている。とくべつ忙しい時期でなければ、こうして毎日ごはんを作ってくれていた。手馴れたものだ。軽快にまな板のうえに乗せた野菜を切っている。
「なあ」
呼びかけることになんとなく緊張し、つい声が震えてしまった。呼びかけたのは、話しがあったからでもあるし、ガスコンロのうえの鍋が沸騰しかけていたこともある。
姜維は鍋におたまを入れようとしている馬岱から目を離し、視線を俺に向けた。
「あのな、その、」
切り出しにくい話しに、思わずどもった。

さっき馬岱と、こっそり交わした会話。
姜維をこの家に住ませてあげないか、という話。金銭面のことだってなんだって、なにも考えちゃいないけれど、このまま家を追い出すわけにもいかない。姜維にふたたびあの苦痛を味あわせることだけは絶対にしたくない。
俺と馬岱の気持ちは同じで、馬岱が朝ご飯を作っている間に俺が話しをしておくことになった。
一緒に家に住まないか、と。

「一緒に家に住まないか」
声がよりいっそう震えた。擦れもした。でも、いえた。
いわれた姜維は目を大きく見開いている。ああ、どんな返事が返ってくるだろうか。やっぱり、いきなりすぎただろうか?

どきん、どきんと心臓が震えるように鼓動する。
返事のないまま、時間はどんどん過ぎた。ただ長く感じただけかもしれないけれど、いい加減に耐え切れなくて言葉を続けた。
「もう、あんな所にもどりたくないだろ?」
大きく目を見開いたままなにも変化のなかった姜維の身体が反応した。頭を縦に小さくふって、それだけ。
だったら一緒に住もう、と続けると、頭を横に大きくふって、それだけ。
一緒に住むということは頑なに拒みつづけるくせに、もどりたくはないという。
もう何十とそれを繰り返して、恐らく三十は超えた頃。姜維があの生活にはもどりたくないと頭を縦にふったとき、俺は強制的にこの家に住まわせることにした。
遠慮ではなく、本当に一緒に住むことがいやなのかもしれないけれど、きっとここで外をさまよっていたらいずれ見つかり連れ戻されてしまうだろうし、そうなればきっと永遠に辛いだけ。それならば強制的にでもこの家に住まわせ、しあわせになろう、と思って。


「…い、いいのですか?」

俺よりもずっと震えた声で、姜維はようやく言葉を口にした。
よかった、一緒に住むのが嫌なわけじゃなくて、遠慮だったんだ。俺が笑うと姜維もぎこちなく笑って、馬岱が笑って姜維が笑ったその時よりもずっとずっと嬉しくなった。








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