こわがりのおくそく








「い、いただきます」
新しくおろされたスプーンをぎこちなく持って行儀良くそう行った姜維は、しかし中々目の前におかれたものに手を付けようとしなかった。
「消化のいいものと思ってシチューを作ったんだけど、きらい?」
心配になった俺は、苦笑しながら聞いてみる。すると姜維はぶんぶんと大きくかぶりを振って、いいえ!と大きく言った。
じゃあどうしてかと聞こうとすると、長くてじゃまだろうからと俺がひとつに結んだ姜維の髪がバシと当たったらしい超兄が「いたい、髪の毛当たる!」と横から入ってきたので、俺が話してるんだけど、ととりあえず咎めておく。
「ごめんねうるさい兄で」
「なんだよ馬た」
「だから俺が話してるんだって」
もう一度きつめに言っておくと、超兄はちぃっと舌打ちをしてから小さくいただきますと言って、スプーンですくったシチューを口にした。姜維はそれをきらきらとした眼で見ている。
「何かめずらしい?」
「楽しいんです」
姜維は輝いた眼を俺に向けると、首を少しだけ傾けて笑った。
こうして誰かと食事を共にすることがとても楽しいらしい。そうだろうか、俺にとってはうるさくてしかたないんだけど。そう思いながら、もし超兄がいなくなったらのことを想像してみる。
自分ひとりのためだけに食事を作り、ひとりで黙々と食べ物を胃に流し込む。確かに、あまり楽しいことでは無いかもしれない。コンビニのお弁当などで済ませてしまうかもしれない。
そう、それに姜維は、
「…あったかい」
気付けば姜維も超兄と同じようにシチューを口にしていた。
それに姜維は、あたたかいものを口にすることだってずっと久しぶりのことなのだ。
今まで自分たちがしてきたあたりまえのことが姜維にとってはめずらしく、また楽しくてしょうがない。
自分がどれだけしあわせか、なんとなく不思議に思いながら超兄に目をむけると、早々に食事を終えてだるそうに席を立った。




歯みがきをしながらリビングルームのテレビのうえに取り付けられた時計に目をやると、8時丁度をさしていた。
ついでにその近くのソファーを見ると、食事を終えてあとかたづけの食器洗いをすませてくれた姜維が眠たそうに座っていた。夜中に目を覚ましてしまったから、睡眠はきっと足りていない。
口をすすぎに行くついで、俺はタオルケットを押入れから取り出して姜維のもとへもどった。予想通りに姜維の目は閉じられていて、座ったまま眠りについている。そっとタオルケットをかけて、起こさないように少しだけ頭をなでた。
見た目にはやわらかそうな髪の毛ではあったが、指を通すとぎしぎししていて案外さわり心地はあまりいいものではなかった。それもこれも、きっとじゅうぶんに栄養が取れなかったせいだろう。
髪の毛だけじゃない。身体だって痩せこけてがりがりだ。
痛ましくて姜維の側から離れる。荷物をつめた鞄を手にした俺は、超兄の部屋に足を向けた。

「薬、おいておくから飲んで」
小さな窓に厚いカーテンの引かれていて、光が入ってこない。昼間でも薄暗いその部屋のすみにあるベッドの上に超兄はとてもだるそうに寝ていて、俺の声にも反応はしない。
こうして薬をおいておくのも、それに超兄が反応できないのもいつものことだから、とくに気にすることはなかった。
「…あいつは?」
「姜維ならソファーで寝ちゃった」
「そうか」
「じゃあ、俺バイト行ってくるから」
超兄の生気のない眼が俺から離れる。うつろに、なにもない空間をじっと見つめて、時折り苦しそうに表情を歪めた。喉が、苦しそうに鳴った。
「ごはん無理して食べることなかったのに」
「だってあいつ心配するだろうし」
「でもこのさき合わせて食べていたら身体が持たないんじゃない」
「平気、どうせ吐くし」
「あっそう」
溜め息交じりに言って、超兄の部屋を後にした。
いつものこと。超兄が、いつも朝だるそうにして苦しんでいるのはいつものことで、たいした心配はない。早く治るといいなあと思いながら靴を履いて玄関のドアノブをまわすことも、いつものこと。


「おはようございます、月英さん」
階段の途中で見慣れたうしろ姿を見つけて声をかけると、きりっとした頼もしい顔の隣の住人が振り返る。手にしているのはごみ袋であったから、一階のごみ置場へそれを捨てにいく所のようであった。
「おはようございます」
頼もしくもあり、笑顔になれば美人でもあり。この笑顔を見た趙雲さんは、この人が人妻ということにも関らず口説いていたことがあった。あの時、趙雲さんに幻滅した。そんなこともあったよなあ、とぼうっと思い出していると、いつのまにか結構な時間が過ぎていて、月英さんは笑顔のままで新しい話題を切り出した。
「どなたかと喧嘩でもなさりました?」
「え」
「いえ、明け方にずいぶんと大きな音が聞こえたものですから」
ああ、そうだ。まだ空も暗い明け方のうちから、ぎゃあぎゃあと騒いでいた。冷静になってみれば、周りの住人にとってはたいそう迷惑だっただろう。慌てて頭を下げると、月英さんは全然迷惑ではありませんよ、と笑って許してくださった。
「あ、じゃあ、そろそろ…」
「アルバイトですか?頑張ってくださいね」
「はい、では」
笑顔を返して、するりと横をすり抜ける。すぐに冷や汗がこめかみを伝った。

明け方、大きな音が聞こえていたという。それはきっと俺が興奮して姜維をはね飛ばしてしまったりしていた音だろう。
それが聞こえていたのならば、声は?
声は、話の内容は、聞かれていなかっただろうか?
もし聞こえてしまっていたら?物騒な話だわね、と噂されてしまったら?その噂が姜維の親の耳に入ってしまったら?
居場所がばれてしまったら…?
いや、でもそんな噂をする人ではない。
そうだ、大丈夫、大丈夫だ。








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