逃げか、自己防衛か








「姜維!」
ふいに耳元で聞こえた声は、ずいぶんと大きくて、なにか焦っているようだった。
ぼやけていた意識だったけれど、いやにじっとりとした湿り気を背中に感じて、自分の心臓なのに驚くほど心音が早くて、飛び起きた。
「姜維」
私の名前を呼ぶ声は小さくなった。安心したような溜め息も交じる。
私は、といえば。頭が痛くなりそうなほどの心音が頭の中に響きわたって、背中がびっちょりに湿っていて、実に嫌な気分だった。状況がよくわからない。
「おまえ、うなされてたぞ」
私が状況を説明してほしいと言う前に、私の名前を呼んだ人が説明してくれた。はっと横を見れば、少し顔色の悪いけれど、あの銀髪の人がいる。
ああ、いやな夢をみていたのか。しかし、その内容は記憶に残っていない。
「ありがとうございます。…わざわざ、起こしてくださって」
いつの間にか身体にかけられていたタオルケットを剥いで、床に足をつける。熱っていた身体が足先から冷えていって、とても気持ちがよい。
そういえば。床が、部屋全体が、きれいなやさしい朱色に染まっている。朝ごはんを食べてから、すっかりこんな時間まで寝入ってしまっていたようだった。
「…こんな時間まで寝ちゃってて、すみません」
「別に構わないぞ。俺だってさっきまで自分の部屋で寝てたし」
そう言われると、確かに食事を終えてからこの人の姿を見ていなかった。私はその後すぐに寝てしまっていたからどんな行動をとっていたのか知らなかったけれど、同じように寝ていたらしい。
「……」
「……」
それきり会話が途切れてしまった。私から出す話題がなければ、自分の家ではないのだからここを自由に移動するわけにもいかない。しかし、この人もどこかへ移動することはしなさそうだった。
せめて、せめて名前を呼ぶことができれば、もう少し話を切り出しやすい気がする。
「…そういや、俺の名前を教えてなかった」
「え、ああ」
「俺は馬超。あの緑色のへんな頭のやつは、いとこで一緒に住んでる馬岱だ」
「そうなんですか」
「…うん、それだけなんだけどな」
「……ば、馬超さん」
覚えたての名前。呼ぶのに、少し戸惑う。
「なに?」
「顔色があまりよくありませんが、平気ですか…?」
相手の顔色がよくなければ、こういう会話を交わすのはふつうのことだと思っていた。しかしなにか悪かったのだろうか。馬超さんは、顔を曇らせた。
「…大丈夫だ」
だけれど、すぐに笑顔へと変える。それは無理にとりつくろったような笑顔に感じられた。




「ただいまー」
少し疲れた声とビニールのがさがさとした音が聞こえたのは、夕焼け空がとっぷり闇色になり、もうじきテレビに写る時計が7時を知らせようとしていた頃だった。
「おう、おかえり」
一緒にテレビを見ていた、すっかり顔色もよくなった馬超さんが顔だけふり向かせ、言葉を返す。私も、と思いながらもどうも気恥ずかしくて中々声がかけられず、そうこうしているうちに馬岱さんから声をかけてきた。
「起きたんだ。おはよー」
「あ、おはよーございます…」
こんな時間に"おはよう"といった挨拶をすることがおかしくて、つい口の端が上にあがる。馬岱さんは何がおかしいのやらといった顔をしながら、たくさん物が入っているビニール袋をテーブルの上へおいた。
「今夜はなんなの?」
「煮込みうどん」
どうやら夕食に使う食材が入っているようだった。馬岱さんはガサガサと袋の中身をまな板の上へ置く。終わりに四角い箱を4つほどテーブルの上へと置いた。
「あ、おまえまたくだらない物買ってきたな!」
「くだらない物じゃないって。玩具つきのおかしだってば」
馬超さんに軽くしかられながらも、さっそく馬岱さんはそれを開け始める。出てきたのは、動物の人形のようなものと袋にほんの少しだけ入ったラムネ。
「やった、まだ持ってないやつだ」
ついさっきまではっきりと聞こえていた声が、耳が声を拒んだかのように小さく聞こえるようになった。
自分の世界へ閉じこもってしまっているような。

なつかしく思った。私も昔、買ってもらったことがある。スーパーに一緒におつかいへ行った時に、どうしても欲しくてだだをこねて、ひとつだけという約束で買ってもらった。とても喜んだけれど、結局そのうちに飽きて捨ててしまった記憶がある。
とても、なつかしい。
その頃はまだやさしかった母と買い物へ行ったあの日が、とても。

泣きそうになった。でも、
私はなんだ?女か?ちがう、男だ。
めそめそ、いつまでも昔のことを思い出して泣いてなんていられない!


「に、煮込みうどん楽しみです!」
出せるだけ、ありったけの声を使って"煮込みうどんが楽しみだ"ということを伝えてみた。
泣いてなんかいられない、自分は男なんだ。同時にそう心に言い聞かせる。
視界に入る馬超さんと馬岱さんは、いきなりの大声に目を丸くしていた。



そう、これからは泣いてなんかいられない。
この人たちと暮らして、自分なりに色々なことがんばって、楽しくて笑って、涙というものを忘れてしまうんだ、きっと。
たとえば、もう一度あの日へ戻ってしまうかもしれないだなんて、これっぽっちも頭に無い。
悔しいけれど正しく言い換えれば、考えないようにしていた。


考えたらどうなるっていうんだ?
恐くて、どうしようもなくなるだけ。
気が狂いそうになるだけ。
自分を守るため、考えないようにしている。
逃げているわけでは、ない。








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